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我が家の系譜

長い前置き

我が家には、代々伝えられてきた「系譜」なるものが存在する。
そして、この系譜によれば、親の親のまたその親の……と遡ってゆくと、織田信孝に行き当たる。つまり系譜を信じるならば、私は「織田信長の末裔」ということになる。

幼い頃に祖父や父からそのように教わったこともあって、これまで織田信長には、それとなく「ご先祖さま」として親しみを覚えてきた。コーエーSLG信長の野望』をプレイするにあたっては、まず織田家から始めるくらいには。

思えば、これが歴史に興味を持つキッカケだったのかもしれない。

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系譜

系譜の記述によれば、話はこうなる。

織田信孝は、大脇定秀の娘を娶っており、彼女が天正11年(1583年)に岐阜城にて男児を出産した。これは信孝が秀吉と対立して戦い敗れ、切腹したのと同じ年のことである。

この男児(幼名・平三郎)は大脇城に匿われ、母方の祖父である定秀によって養育されたという。そして七歳の時に出家、さらに十一歳の時に還俗して大脇姓を用い、後に太郎右衛門重隆と名乗り始める。重隆は、その後に遠山久兵衛の姪・保子を娶り、遠山氏の薦めで山村良勝に仕え、以後、大脇家は木曽福島に移って、山村家の家臣として暮らすようになる。

これにより重隆は、大脇/織田家にとって「中興の祖」と伝えられることになったという。

なかなかに波乱万丈の人生だ。

とはいえ、自分も教えられたままに系譜を信じていた子供時代とは違って、今では歴史を語るには「史料批判」が重要なのだと理解している。史料を用いるには、その正当性や妥当性を多角的に検証しなければならない、という歴史学の原則だ。

つまり系譜があるからといって、それだけでは歴史学的には「織田信長/信孝の末裔である」とは言えないのだ。

重隆の出生に関わる「大脇定秀」なる人物のこともよくわからないし、彼の娘が信孝の死に前後して男児を出産しており、隠されつつ養育された……という流れは、物語としては面白くとも、他の史料に記されているわけでもない。

せいぜい、この系譜から言えるのは、自分は「織田信長/信孝の子孫を称する家系の生まれである」といったところだろう。

自分としては、もはや話の種のひとつくらいの認識でいるので、それで一向に構わない。

ただし、これからも変わらずネタとして織田信長や信孝に対しては「ご先祖さま(仮)」として親しみを持ち続けるだろうし、『信長の野望』の新作をプレイするにあたっては、まずは織田家からチョイスしていくと思う。それくらい許して欲しい。

 

が、ちょっとした出来事があり、どの程度、我が家に伝わる系譜の記述に信憑性があるのか、という点に興味が湧いてきた。

大河ドラマ麒麟がくる』の最終回に際して、何の気なしに発した以下のツイートが、予想以上にリツイートされた結果、ネットニュースとして切り取られるわ、Wikipedia「織田信孝」の項目に記述されるわで、深々とデジタルタトゥーが刻まれてしまったのだ。

 

 

自分が織田家ネタに触れるのは今回が初めてではなかったので、なぜここまでの反響が……と動揺したし、一部にはネガティブな反響もあったため、正直なところツイートしなければ良かったのではないかと軽く後悔もした。

ただ、ひとつ良いことがあった。

件のツイートを見た、木曽福島郷土史愛好家の方から『檜物と宿でくらす人々~木曾・楢川村誌 第3巻:近世編~』(楢川村誌編纂委員会編集)という書籍に、系譜に十代目として記載されている「大脇信就(正蔵)」についての半生を記したパートがある、との情報を寄せていただけたのだ。

これがインターネット集合知というやつか!

 

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『檜物と宿でくらす人々~木曾・楢川村誌 第3巻:近世編~』

さっそく、この書籍を古本で取り寄せてみると、たしかに100ページ以上に亘って「信就(正蔵)」が繰り広げてきた政争について事細かに記載されていた。なるほど、これは面白い。
さらに興味を引いたのは、信就(正蔵)についての紹介として「大脇家」の沿革についても軽く触れていた点だ。そして、その情報源となる引用元についての記載もあった。

ならば、この本を取っ掛かりにして、ある程度の信頼が置ける史料から「大脇/織田家」に関わる記述を見つけ出して我が家に伝わる系譜と見比べることで、四代の出自はともかくとして、多少なりともご先祖さまたちへの理解を深められるのではないだろうか。そう思い立ったわけである。

 

ようやくの本題

我が家の系譜では、先祖を「織田信秀」、二代を「織田信長」、三代を「織田信孝」とカウントしている。これに対して、木曾福島における大脇家の祖となる「重隆」は四代という扱いだ。

系譜には重隆以降、現在に至るまで家督を継いだ者の名前と略歴が記載されているのだが、今回は幕末・明治初期まで、つまり四代から十二代について確認していきたい。

 

これと比較するものとして、まずツイートを介して紹介していただいた『檜物と宿でくらす人々』から見ていこう。同書P.799に以下のような記述がある。

『木曾福島町史』によれば、大脇家の遠祖は苗木藩の遠山家に仕えていたといい、遠山家の娘が山村家に嫁すにしたがって山村家に臣従したという。そして正蔵の父大脇文右衛門(未徹と号す)は、山村家家老として木曾の助郷設置に尽力したという。同書に記載されている山村家の役職一覧では、大脇文右衛門の名前を家老の項で確認することはできないが、二代文右衛門が明暦二年(一六五六)に勘定奉行に、また三代文右衛門が正德元年(一七一一)に材木奉行についていることがわかる。さらに四代惣助と五代文右衛門が、それぞれ享保二十年(一七三五)と宝暦十年(一七六〇)に御用達役(谷中御用取扱役)についていることも確認できる。大脇家は、近世前期からの山村家の重臣であり、おもに地方支配や財政を担当していたのである。

ここで参考文献として挙げられている『木曾福島町史』(編木曽福島町 1982)については、ADEACにデジタルアーカイブとして保存・公開されていたので参照することができた。インターネット万歳!

確認してみてわかったのは、『檜物と宿でくらす人々』は引用の課程で、となりの行に記された人物の就役年を誤って記述しているなど、明らかな誤植が見られるということ。情報の出どころとなる一次史料や二次史料についての言及もしっかりとなされているため、年号などは『木曾福島町史』の方を参照したほうが良さそうだ。

 

また、これ以外に木曾町の福島小学校に据えられている大脇自笑の顕彰碑も参考になる。自笑とは、系譜に十一代として記されている重騏(武一郎)のことであり、この顕彰碑には漢文で彼の略歴が記されているのだ。

ちょうど『木曾福島町史』に訳文があったので使わせていただこう。

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顕彰碑訳読(『木曾福島町史』より抜粋)

このほかADEACのデジタルアーカイブにて関連する人名を検索してみると、中津川市の古文献アーカイブほか、いくつかの史料にて記述が確認できた。ひとまずこれらの史料から得られる情報と、系譜の記述を見比べていきたい。

 

四代 重隆/太郎右衛門

  • 天正11年(1583年)4月7日生まれ
  • 寛永10年(1633年)10月9日没(享年50)

大脇自笑についての紹介では、ほぼ必ず大脇家の遠祖について「苗木藩遠山氏に仕えていた」「後に山村氏に臣従した」という趣旨の記述があるが、これらはいずれも顕彰碑の記述を参考にしているものと思われる。系譜にも「遠山ノ薦ニ応シテ山村良勝ニ事ヘ木曽福島ニ移ル従是連続シテ山村家ニ仕フ 依テ中興ノ祖トス」とあり、内容は一致している。また顕彰碑に「八世の祖太郎右衛門」とあるが、こちらも「四代」として記された太郎右衛門こと重隆から数えて、八世代目にあたる「十一代」が自笑となっているため、系譜による情報と一致していることになる。

なお系譜によれば重隆には二子があり、長男重政が跡を継ぎ、次男重宗は大脇嘉介と称し、苗木藩主遠山秀友の家臣となったとある。

 

五代 重政/文右衛門

  • 元和5年(1619年)2月5日生まれ
  • 宝永3年(1706年)9月20日没(享年89)

『木曾福島町史』に記載された山村家の役職一覧には、勘定奉行の項目に「二 大脇文右ェ門」の名を見つけることができる。氏名の上に記された漢数字は「其家の何代目かを示す」との注釈があるが、重隆を大脇家の祖とするなら、たしかにその子である重政は二代となるため、「二 大脇文右ェ門」=「五代 重政/文右衛門」と考えて良さそうだ。就役年は明暦2年(1656年)となっているため、彼が生きていた時代とも合致する。

なお系譜によれば、鍛冶兼門に命じて一刀を鍛えて自愛し、また茶道を嗜み御紋章の模様がある茶釜を愛用したとある。そういうのを遺しておいてもらえませんかね?


六代 重時/文右衛門

  • 明暦元年(1655年)6月10日生まれ
  • 元文元年(1736年)11月10日没(享年81)

役職一覧には、材木奉行の項目に「三 大脇文右ェ門」の名が見られる。在職期間は宝永8年(1711年)~享保元年(1716年)とあり、系譜における六代重時の生年とも矛盾しない。

系譜によれば、公務を終えた余暇として每日墨汁一升を使うほど習字を好んだとのことで、硯三面を摩滅させたとある。六代に限らず、系譜には趣味についての言及が多い。どうやら、ご先祖さまたちには趣味人が多かったようだ。


七代 成弼/惣介

  • 天和3年(1683年)8月生まれ
  • 宝暦12年(1762年)3月2日(享年81)

役職一覧には、御用達役の項目に「四 大脇惣助」の名が見られる。就役年については『檜物と宿でくらす人々』では享保20年(1735年)となっているが、『木曾福島町史』の原文は享保15年(1730年)とある。先述のとおり、後者のほうが信憑性が高そうだ。いずれにせよ、七代成弼が生きていた時代とは一致する。

 

八代 雄鎮/文右衛門

  • 正徳5年(1715年)10月3日生まれ
  • 寛政7年(1795年)7月27日没(享年81)

役職一覧には、御用達役の項目に「五 大脇文右ェ門」の名が見られ、在職期間は宝暦6年(1756年)~宝暦10年(1760年)とある。また『中津川市史 中巻Ⅰ』には、中津川代官として大脇文右衛門の名が記されており、宝暦2年(1752年)~宝暦6年(1756年)まで、その役を務めたとある。中津川代官を務めた後、御用達役となった、ということだろう。

ちなみに系譜には「砲術ノ名手タリ」と記された後、「君資性容貌絶美常ニ婦女ノ感慕煩悩ニ堪ヘス自カラ髪ヲ剃リ揆鬢変装シテ之ヲ避リ 故ニ鬢髪発砲ノ像ニ主君題字ヲ親書シ賜リタルノ画像アリ」とある。なにそれおもしろい。

 

九代 信昌/文之進

  • 延享3年(1746年)4月20日生まれ
  • 文化5年(1808年)1月16日没(享年64)

『木曾福島町史』の役職一覧は「安永頃まで」とされており、九代信昌に該当するであろう「文之進」以降の名前は見られない。

なお、『檜物と宿でくらす人々』には「正蔵の父大脇文右衛門(未徹と号す)は、山村家家老として木曾の助郷設置に尽力した」とあるが、系譜によると正蔵の父は信昌(文之進)であり名前が一致しない。そもそも『中津川市史 中巻Ⅰ』によれば「山村家の家老大脇文右衛門」が木曽の定助郷制度実施を出願したのは、正徳元年(1711年)ことであり時代も合っていない。1711年に現役として家老職にあった可能性がある文右衛門となると、六代重時だろう。実際、系譜には重時の戒名が「高徹院法輪未徹居士」であったと記述されており、「未徹と号す」という記述とも一致している。

ちなみに系譜では、信昌の項目に「往昔ヲ追偲シテ姓ヲ織田ト改ム」とある。表向きは「大脇姓」を、身内では「織田姓」を使っていたという口伝があるのだが、おそらくこの記述に由来するのだろう。ただし、史料上で「織田姓」が現れ始めるのは、確認した限りでは二代後からになる。

 

十代 信就/正蔵

  • 天明3年(1783年)4月12日生まれ
  • 嘉永5年(1852年)12月2日没 (享年70)

彼の半生については『檜物と宿でくらす人々』の『第五節 山村家「天保の難」』に詳しく記されている。同書の記述によると「大脇正蔵(總助あるいは信就、字は士賢)は、天保十五年の尾張藩の裁許状によれば、「三代以前伊勢守(山村良由)以来、格別に相用いられ」た人物」だという。系譜でも「字ハ士賢悔室」、また「藩主大ニ優遇スル」とあり、一致している。

西筑摩郡誌』(西筑摩郡役所編 1915)によれば「地方奉行となり学事に参与」とあるが、この点も系譜には「地方奉行兼参與学事ニ預ル」と記されている。

彼が何をしたかと言えば、谷中御用取締役として地方支配の実権を握り、当時、財政危機にひんしていた山村家を再建すべく「修法」なる改革案を提示。これが主君である山村良祺の逼塞*1を含む非情なリストラ案だったため、一部の勢力から猛反発を喰らい山村家家臣が「正蔵派」と「反正蔵派」の真っ二つに分かれて、泥沼の政争を展開することに。その結果、背伐*2問題の責任をとらされた上、良祺の義母である蓬栖院との密通スキャンダルまでブチ挙げられて大炎上したらしい*3。そして反正蔵派の攻勢で、改易*4までされて失脚したものの、後に尾張藩主を巻き込みつつ処分が見直されて盛り返し、最終的には政敵をまとめて放逐……というカルロス・ゴーンもびっくりな人生を歩んだようだ。

 

十一代 重騏/武一郎(自笑)

  • 文化6年(1809年)2月9日生まれ
  • 明治9年(1876年)9月14日没(享年 68)

おそらく四代以降のご先祖さまたちの中で、もっとも有名な人物。島崎藤村の『夜明け前*5にも、ちらりとその名が出てきたりするほどだ。
顕彰碑によると「君諱を粛。後更に重騏という。字を希魯。栗斉と号す。武一郎と称し、自笑は其晩号なり」とあるが、系譜にも同様の記述がある。その他、松崎慊堂の塾で学んだことをはじめ、射御銃砲皆師法ありとする点も系譜と同じ。

中津川代官となるが、父である正蔵が失脚した際に連座して任を解かれている。『檜物と宿でくらす人々』によれば、正蔵の指示で隠密のように情報収集にあたっていたようで、顕彰碑でも「濃尾甲相豆武の間に奔走し、怨家を探捜し以て父の冤を雪ぐ」とある。系譜では「密カニ父ノ怨敵ヲ探索シテ終ニ其冤ヲ雪キ」という恨みつらみに満ちた表現となっているのが面白い。
復籍後は「物頭兼軍事奉行」となったと記されている点は、顕彰碑と系譜ともに同じ。また私塾を構え教育に従事したこと、明治に入り学制発布によって小学校が設立されることになった際には、故郷に戻り福島学校(現・木曽町立福島小学校)の学督に就いたことも同様。やたらと声が大きかった、というエピソードも顕彰碑、系譜の双方に記述されている。

このように顕彰碑と系譜で経歴はほぼ完全に一致しているが、なぜか生年月日と命日が異なっている。命日については、顕彰碑が明治9年10月14日、系譜が明治9年9月14日であり、「九」と「十」をどちらかが取り間違えた可能性が考えられる。ただし、生年月日については、顕彰碑が文化5年7月15日、系譜が文化6年2月9日となっており、まったく異なるのだ。そもそも系譜には「明治四十五年門人有志相謀リテ頌徳碑ヲ福島学校庭前ニ建設セラル」とあり、顕彰碑の存在に触れている。この顕彰碑の建設にあたっては、息子である十二代文も関与(顕彰碑裏の連名に名が見られる)していたことから、その内容を知っていたはずだ。わざわざ、異なる日付を書いたということは、少なくとも文はこちらの日付の方が正しいと認識していたことになるだろう。

余談だが顕彰碑に「氏を織田と改む」とあったため、少し調べてみたところ、『山口村誌 上巻』に安政5年(1858年)11月29日の大火災の2日後、被害状況確認のために福島から派遣されてきた役人として「織田武一郎」の名が見られた。また、安政6年(1859年)の「御家中分限帳」に御軍役として、同じく「織田武一郎」とある。これまで織田姓を対外的に使い始めたのは明治維新後であると考えていたが、それよりも早い段階であったことが確認できた格好だ。個人的に、これは新しい発見といえる。

 

十二代 文/文右衛門

  • 天保元年(1830年)5月5日生まれ
  • 明治33年(1900年)11月10日没 (享年70)

系譜によれば安井息軒の塾で漢学を学び、箕作麟祥の下で法学を学んだとある。明治5年豊岡県少属、後に大属となり、判事補として各地に転勤、16年間勤め上げて依願免官したという。どうやら豊岡県権参事を務めた大野右仲の下で働いていたらしく、ネット上で検索した限りでは、社寺上知令に伴って妙見社に派遣され、境内の土地没収に関与していたという記述も見られた。この時は「大脇文」名義だったようだが、東京谷中にある我が家の墓では「織田文」として記されている。

なお系譜には、茶事、狩猟、飲酒を好み、酔えば必ず歌を歌ったが、これがなかなかに名人だったという謎の逸話が残されている。

 

と、ここまで「系譜」に記されていたご先祖さまたちを追ってみたが、それ以外の史料でも彼らが生きていた痕跡を、思いの外たくさん見つけることができた。四代の出自については、もはや証明する手段はないが、大脇自笑のような知識人が自分たちのルーツを想い織田姓を名乗り始めていたというのは、なかなか面白いといえるのではないだろうか。 

*1:江戸時代の武士や僧侶に対する刑罰。門を閉ざして日中の出入りを禁じる

*2:江戸時代の木曽山林において停止木を伐採すること

*3:この密通疑惑は本人、および蓬栖院がともに否定。蓬栖院は正蔵復権のため積極的に動くことになった

*4:武士身分の剥奪

*5:「来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑の塾にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た」と地元で有名な教育者といった扱いで登場する